the bus doesn’t come.
僕はバスを待っていた。しかしいつまで経ってもバスは来なかった。そこは間違いなくバス停なので、バスが来ないことはないのだが、いつまで経ってもバスは来なかった。
バスが来る道から女性が歩いてきた。その女性は僕の目の前まで来て僕に話しかけてきた。英語に不慣れな僕は聞き返した。再びその女性は話してくれた(おそらく同じ内容のことを)。どうやら事故があってバスはしばらく来ないということを僕に伝えてくれた。僕にことを伝えると彼女は歩いていった。おそらく今後彼女に会うことはないだろう。僕は彼女の名前すら知らないし、彼女も僕のことを何も知らない。ただ僕らは道で会っただけ。おそらく僕らは同じバスを待っていただけ。
彼女の親切はとても嬉しかった。それと、”当たり前のこと”として認識していたことに新鮮味を感じている自分に驚いている。こういう体験をしたからって「世界はラブ&ピースだぜ!」とは思わない。一方ですれ違い際にアイスの棒を投げつけケラケラ笑う輩もいる。世の中にはいろんな人がいて、いろんな奴がいる。振り返れば奴がいる、は織田裕二のドラマだけど、いかに自分に親切にしてくれる人と出会うか、というのは日々に彩りを与えてくれると思う。そして自分の行いが他人の行いに影響する(例えば”情けは人の為ならず”)、という考え方もあるけれど、僕は他人の(何気ない)行いが自分の行いに影響するものだと思いたい。だって前者は我田引水、あまりに自己中心的な思惑がワクワクさんだと思うから。だからといって無償の愛アガペーを心がけよと言いたいわけではない。やり過ぎじゃない何気ない親切というものが沁みたんだよね。
何かの教えのようで胡散臭い香りが漂ってきたけれど、この出来事で思ったことをもう一つ。今回伝わってきた情報は、普段液晶から得ている情報とはモノが違った。それは質とか内容ではない。バス停で手にした情報はその場でしか意味のない情報で、数時間もすれば価値はなくなる。しかし確かにその場所その時間においてはとても価値ある情報だった。一方、液晶から得る情報は意味ばかりを追求し(中には意味すらないものもあるけれど)、価値は感じられない。確かに地震が珍しい国での地震や、日本の放射能の話は誰かにとっては死活問題だ。しかしそういった情報を液晶を通して手に入れている人にとってはそれらは価値のないものであって、(僕にとって)集めるべきは明日そしてその延長線上にいる自分の為になる情報なんじゃないかなって感じ、更に今までの自分の情報収集の方法を見直さなければいけないと感じたのである。もしかしたら液晶の向こうには答えはないのかもしれない…と、大袈裟に語ってみたけれど、とは言っても好きなアイドル等のブログをチェックしたくなるのが、かっこよく言えばデジタルネイティブ故の、もはや癖でしょう。そろそろネットワークを遮断しないと本格的にマズいと思うんだよね。
トイレでお尻に跳ね返ってきたお釣り(水滴だけだと思いたい)の不快感を無視しながらこんなこと考えている。まったくもって時間のムダだぜ。そろそろ胡散臭さだけでなくうん○ち臭さも漂ってきたので終わりにしようと思う。